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2008年3月24日 (月)

私の助け

老牧師は毎週「きょうのみことば」を配信しています。ココログにも掲載しますので、ご覧ください。

【きょうのみことば】(3月23日)

 「『わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。』そこで、私たちは確信に満ちてこう言います。『主は私の助け手です「ヘブル13章5,6節

 「ロープウェイに乗ったことがありますか。揺れますね。でも飛び出したりしません。それは危険です。どこまでもロープウェイを信じて乗り続けます。人生も同じです。足元が揺れるからと言って信仰を投げ出してはいけません。神さまの約束は確かです。あなたを捨てたりは決してしません。

 でも、神さまを信じられなければどうすることもできません。<「信じられないなら、電車でも自動車でも舟でも乗ることはできませんし、道ですら歩くことができません。まず信仰です。確信を持って神さまは「私の助け」ですと言うことです。

 信仰を確かめるいちばん良い方法は、はじめの愛に戻ることです「あなたの原点」はまだそこにありますか。罪を悔い改めた時、罪を赦してくださいましたね。心に平安を注いでくださいました。こんな方が外におられるでしょうか。信じましょう。この方以上に確かな方はおりません。「主は私の助け手です」。

【今日の祈り】
 父なる神さま。あなた以上に確かな方はいません。あなたを捨てないと仰ってくださったあなたの約束を、手放しません。どうか迷うことがないように、私をしっかりと捕まえてください。イエス様の御名によって、アーメン。

【web礼拝】(2008.3023)をupしました。これもご覧ください。

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2008年3月17日 (月)

ああ、ビアドロローサ

 昨日の日曜礼拝はパーム・サンデー(棕櫚の聖日)で、主イエスさまがロバの子に乗ってエルサレムに入場されたことを記念しました。説教題は「ああ、ビアドロローサ」。これは今朝、【web礼拝】にアップしましたので、ご覧ください。

 私は昨年、聖地イスラエルの旅をすることができ、この道を歩きました。エルサレム北西にあるステパノ門から入って、すぐ「磔刑教会」「エッケホモ教会」があります。途中14の祈祷書があって、聖墳墓教会にたどり着きます。もう今はそのときの面影は残っていません。教会が場所を占めています。しかも、同じところにローマ教会、ギリシャ教会、アルメニア教会が同居同然にあります。まことに不思議な感があります。

 それでも、2000年前にイエス様が歩かれたその場所に来たという感慨は特別のものでした。そんなことを胸に抱きながら、棕櫚の聖日を記念しました。私は今年で71歳になります。神学院を卒業してから、50年近くなります。その当時は今に大教会にしようと意気込みました。しかし、人の心はそう簡単ではありません。自分の思い、夢、希望、こだわりで満ちています。神様に自分を明け渡すことなどとんでもないと考えています。神の愛がこんなに迫っているのに、はた迷惑としか考えません。

 ああ、こんな人間のために主は十字架にかかられたのです。「イエス様ありがとうございます。」私にこれ以上の何が言えるでしょう。私はただただイエス様についていけばよいのです。気がついたら、自分の生き方の間違いに気づき、罪を悔い改め、赦しを乞い、イエス様を信じて救いを受け取る方々が、教会に来ておられます。集まってきた兄弟姉妹にも心から感謝します。

 午後は、第三日曜日ですから【ゴスペルの集い】を行いました。人類の罪ゆえの苦き杯を飲み干された主イエスさまについて語りました。遠く神奈川県からも来て下さって、私の拙い説教を聞いてくださいました。感無量です。この年になって、こんな満ち満ちた一日を過ごせるなんて、こんな幸福どこにあるでしょうか。これもイエス様に従ってきたゆえでしょうか。

 体力的に、あまり何もできなくなって、それでも主のご奉仕につかせていただいていることに、感謝がいっぱいになりました。「主よ。ありがとうございます。もうあと残り少しですが、地上にいるかぎり、この奉仕にとどまります。」今朝はこのように献身のお祈りをしました。

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2008年3月14日 (金)

オール・イン・ワン

 昨日、出勤途中に公園を横切ろうとしたとき、カーンと甲高い音が聞こえて来ました。老人グループがゲート・ボールをしているところでした。玉がきれいに公園の一角から転がって行くのが見えました。行方を見ると20センチ間口のゴールがあります。「入るぞ」と思っていると、見事、後ろの柱に当たってゴール内にとどまりました。「入った」「上手い」「いやーたまたま」などと話し声が聞こえてきました。私も「ホール・イン・ワンですね」と声をかけて通り過ぎました。歩いている間、その余韻で何ともいえない気持ちでした。

 これは偶然ではありません。ホール・イン・ワンの条件は正確な初期値です。角度、速度、地形、風向き、ゴールのつくりなど、いろいろな条件を設定して、非常に狭い範囲内にあります。それを決めるのは腕なのか、たまたまなのか、それは分かりませんが、とにかく決定の連続であって偶然ではありません。ではだれがその値を決定するのでしょうか。

 ホール・イン・ワンは、まだまだ軽い題目です。この広大は宇宙の保持、地球の生命環境の保持を考えと、微妙な非常に狭い、難しい微調整が行われていますが、これを偶然の所為とすると、ますます不思議になってきます。最初にして最後の決定者、全能にして偉大なお方が、この宇宙を支えておられると考えることが、人間の精神衛生にとってもっとも大切なことです。

 私は日々に祈りますが、確かに祈りは心に安らぎを与えます。それはこの私の思いに答えてくださる方がおられるからです。人生は全能の神によって見守られているとの信仰に立てることは、本当のありがたいことです。

 今週の浦和教会の【web礼拝】をご覧ください。

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2008年3月11日 (火)

悲しいかな衝動

 最近、抑えられない衝動で犯罪を犯し、エリート・コースで築き上げてきた立場は地位を棒に振ってしまう事件が起こりました。こんな馬鹿なこと、やるせないこと、悲しいことがあるでしょうか。どうして人間はこうも愚かなのでしょう。「いや俺は違う」という人がいるかもしれませんが、そうなら謝ります。どうしてこうも愚かなことをする人がいるのでしょう。

 でも、人間誰しも欠点や弱点は持っていると思います。ただあの人の弱みは私の強みであることがありますので、人の失敗を見ても、「俺は違う」と言って見過ごしにしやすいものです。そして自分の失敗は言い訳が立つものですから、なかなか学ぼうとしません。これが馬鹿なことがなくならない原因でもあります。

 でも時には「自分の欠点」を見つめることをした方がいいですよ。静かに自分だけで反省するときは言い訳する必要がないですから、じっくりと考えて反省することができますね。どんなことで「しまった」と思うことが多いですか。私も自分の欠点は頭に叩き込んでいます。欠点ばかりでなく、「罪深さ」もチェックしています。そうでないと足をすくわれ、とんでもない失敗をすることがあるからです。

 次に自分特有の欠点を克服する方法について考えましょう。実はないんですよ。私の経験からしてそんな都合のいいものはないと、はっきり申し上げることができます。欠点は欠点、どんなに決意を固めても、努力しても、なんと誘惑の引力は大きいことでしょう。ついには負けてしまいますね。人間の心なんて絶望的ですよ。囚人と同じですよ。抜けきらないですよ。

 ですから私は祈ります。「神様助けてください」と祈ります。私の毎日の祈りは真剣です。祈らないと、自分の性格に振り回されて、悔いのある毎日を送ることになりますから、真剣ですよ。ここまで書きますと、宗教かと言ってしらける方もいるかもしれませんが、私はこれ以外の方法を知りません。あったら教えてほしいですね。

 私は誘惑に堕ちて、惨めな思いをしたことが何度もあります。何度も悔いて、やっと神様が助けてくださるというコツを身に着けたのですから、これをそう簡単に投げ捨てるわけにはいきません。「神様」と叫ぶと、神様が手を伸ばしてくださって、「さあ掴まりなさい」と言ってくださいます。何度も失敗しましたが、何度かやっているうちに、神様に頼る感触を覚えました。

 神様に頼る歩みをしてきて、今、心は非常に豊かにされました。まず「悔しい思いをしないですむ」ことがどんなに晴れやかかと言うことです。それだけではありません。私はもうずいぶん年をとってきましたが、それでも未来にすごい希望が見えてきたことです。神様に頼ることは誘惑に勝つ以上のことです。むしろこのプラスアルファのほうがすごいです。

 ここまで来て、人間の愚かさの意味と、神に信頼する意味がだんだん分かってきました。人間は神様なしでは、結局悔やむ人生しか送れないということです。ですから、失敗をした人を見て、ああ可愛そうに、思うでしょうが実はそうではありません。彼らに神様は非常に近くまで近づいてきてくださっているのです。人生の救いの機会が与えられているから、チャンスなのです。むしろ客観的に、「ああ可愛そうに」と言っている人のほうが、神様の憐れみから遠くにいることになります。

 最後に聖書のみ言葉を掲げておきましょう。

 「神は実に、そのひとりごをお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者がひとりとして滅びないで、永遠のいのちを得るためである。」(ヨハネの福音書3章16節)。

 私のホーム・ページも見てください。

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2008年3月 9日 (日)

エッケ・ホモ

今朝の礼拝説教題は「エッケ・ホモ」。これは1世紀のユダヤ総督ピラトの言葉です。意味は「さあ、この人です。」と言って、自分がさばいているキリストをさしていっている言葉です。判決を下すのでなく、「これがこの人だ。お前たちはどうするつもりだ。」という。これではまるで職務放棄、うろたえているも同然、こんな場面がヨハネの福音書(19章)に記されています。

この礼拝は「web礼拝」に明日の朝までにはupしますのでご覧ください。

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